1、浄土宗光願寺の仏様について紹介します
2、浄土宗光願寺末寺の修福寺について紹介します
3、浄土宗 田川郡 田川市で御仏前など封筒の向きについて紹介します
『浄土宗修福寺について』
今回はその中の修福寺のご本尊について
お話ししたいと思います。
平成18年に父である第23世諦誉上人が遷化され
私と副住職の姉とで亡き師僧の供養にと
修福寺のご本尊を修理に出しました。
その本尊阿弥陀如来像は指は欠け、光背もなく台座もない
状態でした。長年そんな状態だった阿弥陀様を
なんとか修理したいと思いながら出来なかった
父の代わりに私と姉で修復に出しました。
修復の仕方も色々あり今回は一番細かな修理と
失われていた光背と台座の作成でした。
修復をお願いしていた仏師さんからある日連絡がありました。
仏像をパーツごとに分解したらお腹の中に
巻物が入っていました。
それは5✖︎8センチほどの小さな薄い板を
和紙で巻き、漆を塗って虫に食べられなように
加工していたものでした。
中には
累山 光誉代
宝永三年十月十七日の年号と
この仏像を作る為の施主の名前
そして、 奉彫刻 釈迦牟尼仏 と書かれていました。
浄土宗でお釈迦様をお祀りすることは少ないのですが
光誉代と書かれてることから
やはり浄土宗のお寺に、意図があって祀られたことには
間違いありません。
ただし、いつの間にお釈迦様が阿弥陀様に変わり
この累山というのがどこのお寺のことなのか
寺院名が記載されていないのでわかりません。
また修福寺には 伏せ鉦という金属で出来た仏具があります。
その裏に、
中尾脇村 修福寺什物
当寺住林海和尚代 と彫られていました。
今の大分市の中にあった村のようです。
古い記録によると江戸時代には確実に今の大分市にあった
ようです。
光願寺の境内にある修福寺の開基記念碑の年号を
見ると大正5年4月10日と彫られています。
それまでに当時の住職がこの伏せ鉦と阿弥陀様を
持って大分から香春へと来られたんじゃないでしょうか。
光願寺の開山上人は鎌倉から香春へ
修福寺の住職は大分から香春へ
どんなご縁があったのでしょうか・・・・。
とても気になります。
もしかしたら、前述の2の二祖鎮西上人像、3勢至菩薩像も
大分から来られたのかも知れません。
『浄土宗 田川郡 田川市で御仏前など封筒の向きについて』
*宗派や地域によって違いがあることをご了承ください
親戚の法事などで伺った時にお仏壇にお供えしますよね。
どっち向きに置けばいいの?と聞かれることがあります。
人から御仏前を預かってお供えする時と
ご自身がお供えする時とで向きが変わります。
ご自身がお供えするときは名前を仏様の方に置きます。
人から預かった時は、来ている人にわかるように名前を手前に向けます。